脚下照顧

 題名の文字は一見非常に難しい文字と感じるかもしれませんが、そうではありません。禅で使う「足許に気をつけなさい」と教えられている言葉です。脚下とは足許の事、照顧とは自己を良く見よと云う禅言であります。これは人間として当り前の心得であり、ともすれば前のめりになり、自分の存在意義が本質を忘れ勝ちになる人間に対しての教訓とも云えます。仏教・神道を問わず、その理論の中には必ず胸に来る教えがあります。良い事は学び、無駄な事は自らの理性で調えて、心の貴い人間として生きたいものであります。

 七月に入り、御盆の行事が参ります。江戸盆は七月、一般には八月供養と云われておりますが、そもそもの江戸時代から続いた風習は、それなりに定着して国民の殆ど全ては七月八月を御先祖供養の月と思っています。京に対する江戸の反撥だけではなく、荒野の関東を開発する為に沢山の商人が店を構え、多くの使用人は現在の様には電気もガスも水道もない中、必死に働き、年に一回の休みを墓参等の私用に当てた、それがずっと続いている雇主の気遣いが七月だと云う説もあります。

 今も日本橋辺りの老舗の御老人は大きな店の二階に住んでいた店の沢山の使用人、当時の小僧さんの話を懐かしげに話されますが、その人達の働きでお江戸は栄えたのだろうと思います。七月八月、私共は自分の御先祖を心から御供養致したいと思います。先祖が居られなければ自分はいないと云う誠に単純ながら厳正な事実であります。自分を大切に思うのなら、血の繋がった御先祖様の方々が安らけくおられます様、心を籠めて御供養をさせて戴きましょう。

 さて、日常の言葉の様になって仕舞ったコロナウィルス災禍も一年有余に亘って全世界を苦しめて来ましたが、各国でワクチンが開発され、些かの安心をもたらしてくれております。然し、ワクチン接種を二度行わなければならないと云う疑問、接種をしてもマスクや密への注意は怠ってはいけないと云う声明、まだまだ万歳とは手を挙げられない感が残ります。目に見えないものの怖さを知らせられた想いでありますが、本当に打つ手はなかったのか、何かのタイミングは見えなかったのか等、不安に思う気持ちが拭い切れない以上は、想いが残っている様に思います。然し、今の状態の中にいる以上は、自分でしっかり自分を守って行かなければならないと重ねて思います。身体が元気で気持ちが強くある事が重要であります。この一年、幾度も同じ事を申し上げて来ましたが、栄養・運動・呼吸を含めた健康留意の日常を送って、前向きに生きて行きましょう。健康を保つと云うのは中々の努力だと思います。人間は感情的ですから、苛々する事もメソメソする事もあり、喜怒哀楽に振り回される事も屡々あります。楽しい事は直接身体に良い影響を与えますし、マイナス思考は精神的にも身体的にも必ず表れるものです。クヨクヨすると癌になるよ等と云う位、内蔵への負担は大きいものですから、気持ちや考え方の切り換え、変換を心がけて、楽しい方へ目を向けて行きましょう。人間が落ち込む時、最も多いのは被害妄想的になる状態です。憂さの全てを自分で背負って仕舞って、どうしようもない気分になるのも人間でありますし、そこから自分の意思と考え方で立ち上がれるのも人間であります。大切な人生を明るく生きる事が目標だと思います。大抵の事は命まで取りません。周囲には必ず自分を見ていてくれる人も適切なアドバイスをくれる知識人もおります。自分でわざわざ負の方に募穴を掘る必要はありません。

 今回の災禍の中で、私達は様々な未知の知識を得たと思います。それと共に「自分が大切」と云う事も、改めて本当に感じられた事と思っております。この経験をないものと考えるのは勿体ないですから、俄慢や今迄知らなかった医薬学の知識、電子機器に対する自分のレベル等を良く考え、肥やしにして行く事であります。日本は狭い国ですが、北の果てから南の突端までのニュースが連日流されました。改めて一道一都四十数県の特質も解りました。歴史も地理もより身近になった様です。全てをプラスの方に向けて、人生を充実させて行きたいものだと思います。

忘れてはいけない言葉に「脚下照顧」の言葉を加えて下さい。それが自分の成長に必要です。